地域の農業について

地域の農業について

地域はどんなところ

位置と地勢

 帯広市は、北海道の東部・十勝平野のほぼ中央部に位置し、面積約618㎢、人口約17万人で、十勝の農林業の集散流通都市として発展してきました。
 市街地は北に集中しており、南には大規模畑作地帯が続き、広大な田園地帯を形成しています。

帯広市とほぼ緯度を同じくする世界の都市は、イタリアではローマ、スペインではバルセロナ、アメリカではデトロイト、ボストン、ソルトレイクシティです。

位置と地勢
気象と気候〈気象と気候〉

 十勝は日高山脈と大雪山を背に太平洋に面し、気象は大陸機構の特徴を有し、春と秋は短く、夏は比較的高温ながら爽やか、冬は寒さが厳しい反面、降水量が少ないことから晴天日数がきわめて多くなっています。十勝平和の中央を広大な十勝川が流れ、川西地域の東を流れる札内川は、清流日本一の折り紙がつけられ、この川の伏流水を引用する帯広の水は、澄んだ空気とともに「水と空気のおいしいまち」として帯広市民の誇りとなっています。

気象と気候〈気象と気候〉
平均 気温最高 最低 平均湿度 降水量合計 最深積雪 日照時間 平均風速 最多風向
% mm cm h m/s
平成25年 7.3 33.6 -22.7 74 933.5 72 1944.6 2.2 西北西
平成26年 7.6 34.8 -20.1 70 885 53 2162.4 2.3 西北西
平成27年 8.1 36.5 -20.2 71 890.5 80 2094.2 2.2 西北西
平成28年 7.2 32.3 -19.6 71 1275 97 2063.9 2.2 西北西
平成29年 7.2 37.1 -22.1 69 892.5 63 2181.9 2.1 西北西
平成30年 7.5 34.5 -21.3 73 1107 106 1986.9 1.9 西
令和元年 7.9 38.8 -24.5 72 778 33 2152.6 2.2 西
令和2年 8.1 35.8 -22.4 74 716 78 2011.7 1.9 西
令和3年 8.2 37.1 -21.5 74 1002.5 67 2085 2.0 北北東
令和4年 8.3 33.7 -19.7 74 1011.5 62 2088.7 1.9 西
月平均気温と月間降水量比較

地域農業の概要

農作物の作付構成
農業生産額の構成

地域農業の歴史

開拓当時の農家(明治45年頃)
開拓当時の農家(明治45年頃)
十勝の馬耕風景(昭和初期)
十勝の馬耕風景(昭和初期)
大型コンバインによる小麦収穫(現在)
大型コンバインによる小麦収穫(現在)

 小豆をはじめとする豆類、小麦、馬鈴薯、甜菜など良質の穀物を大量に産し、全国屈指の穀物地帯である十勝地方。その広大な耕地や森林をもつ中心都市が帯広…。

 十勝地域の開拓は珍しくも民間の手によるもので、寛文6年(1666年)に松前藩が「ビロ-場所」を設け、十勝農試アイヌと交易を始めたのが和人による十勝開発の始まりです。

 明治16年(1883年)に、静岡県加茂郡の依田勉三を中心とする「晩成社」が開拓団13戸、27名を組織して帯広に入植、帯広に開墾の鍬が入れられたが、当初は多難を極めほとんど見るべき成果を収められませんでした。しかしながら十勝の未開の開拓に挑んだチャレンジ精神、開拓者魂は脈々と受け継がれ十勝人の精神的源流になっています。

 やがて明治19年(1886年)に北海道庁が設置され、明治26年から帯広を起点として殖民区画割りが行われ、明治29年(1896年)以降移民に開放されることになりました。岐阜県、富山県、三重県、香川県、島根県、山形県等からの移住者により本格的な開墾が開始されたのです。

 十勝川流域の沖積地から始まった帯広の開拓は、明治30年代に入って次第に周辺の台地にも及ぶようになるが、生育期間が短いばかりでなく、火山灰地、泥炭地等の土壌が占めており、常に冷害凶作や水害による農地の疲弊などに脅かされました。

明治40年(1907年)に道央との鉄道が開通して農産物輸送が円滑化され、飛躍的に開拓が進められました。
昭和に入ってから冷害凶作が続き農家経済が悪化しました。これに対処するため、従来の豆作偏重を改め、乳牛、馬、小家畜の導入による有畜農業への転換、根菜類の導入、優良品種の普及と適地適作経営への転換、農作物加工の普及など、農業全般に対する改善が打ち出されました。

 瘠薄な土壌の不利な条件ながら、輪作農業の確立や酪農への転換、品種改良、農地改良等によりそれらを克服して、今日の帯広農業の基礎を築いてきました。
現在は、広大な耕地と自然環境に恵まれた我が国を代表する畑作・酪農地帯として大きく発展し、食料基地としてその前途は大きく期待されています。